「ママ」という呼び名への「うわ、気持ち悪い」という抵抗感を考察してみた

子どもはいつまで「ママ」と甘えることが許されるのか?

小さな子どもがママ、と母親を呼ぶのは発語しやすいからだと子どもが産まれてから理解しました。主張しはじめた時はすべてがマンマー!で、夫もずっと「ママ」と呼ばれています。最近は言葉がわかるようになってきたので、夫のことも「パパ」だよ、と「パパ」と呼ばせようとしています。

本当はお父さんとお母さんと呼ばせたかった。だから私は一生懸命夫を「おとう」、自分自身を「おかあ」と呼んでいました。ママ、パパと呼んでいたら思春期になって呼び方を変える時気恥ずかしさがあるだろうな、移行に戸惑うだろうなと思ったことと、「ママ」が気持ち悪いと思っていたからです。

今は慣れましたが、夫が私を指して「ママ」というのも気持ち悪いと思っていました。夫のことをパパというのもかなり抵抗がありました。お互いに「お父さん」「お母さん」と呼び合う夫婦になりたくなかった。お互いをひとりの人間として見る夫婦でいたいと願っていたから。

でも実際に子育てをしていると、ママ・パパのほうが俄然発語しやすい。そして子どもを育てる家族というのはいかに役割分担・分業をすることができるか、自分の役割を受け入れることができるか、にかかっているなぁと理解するようになりました。

例えば私はフルタイムの仕事を辞めて家で子どもと過ごすようになりましたが、最初の頃はフルタイムの仕事をしてある程度稼いでいた自分から「専業主婦」となった自分のアイデンティティを受け入れることができずに、夫に「あなたは仕事に行けていいわよね」とイライラしていました。

でも、夫婦・家族は1単位で同じゴールを目指す共同体、と考えると「お父さん」「お母さん」として機能することがスムーズな家庭生活の秘訣なのかなと思うようになりました。

恋愛や色恋や情事の延長として「夫婦」を考えるからややこしくなるんだよなぁ、と。

HSPはかなりパーソナルスペースが必要(共同体としての感覚よりも個人としての感覚のほうが強い)な方が多いという感覚があります。

実際「ママ」と呼ぶ中学生男子を想像してみてください。

いじめられそうな気がするのは私だけではないはずです。

「ママ」と呼んでいる思春期の男子。

そこには、

・「ママ」への甘え

・「ママ」と呼ぶことを許されてきた=守られてきた安心感

みたいなものを感じます。まだ「社会に揉まれたオス感」がまったくありません。

そして「ママ」と呼ばせるほうも、いつまでも子どもが甘えてくれる「ママ」というアイデンティティを必死に守ろうとしているような、子どもに依存気味のような、そんな風に感じます。

どんなに強がったことを子ども(例えば中学生くらいの思春期真っただ中な子ども)が言っても、「ママにはわかんないよ!」と「ママ」という言葉を使って反抗してきた時点で、まだまだ可愛いな、甘えられること・依存することが当たり前の庇護される側の権利を当然と思っているなあと感じるのではないでしょうか。

「ママはね」と自分のことを繰り返し「ママ」と呼ぶのは、「ママ」でいたいから。

あなたを守る、あなたのことを一番理解している、あなたの「ママ」でいたいから。まだ子離れしたくない、「(主婦で)ママ」というアイデンティティが強いからかなと。

「ママ」と「○○ちゃん(子ども)」の間には、何か甘酸っぱい空気が流れてるんだなぁ。

私がキモイと感じてしまったのは、自分自身でいることよりも「誰かのために(ママでいること)」生きることを優先していることについて。

「ママ」というアイデンティティには、すべてのことを差し置いても私はこの子の「ママ」なのよ!という感覚を感じるというか。

女性に、子育てを取ったら私には何も残らない、、、と言わせたくない。

「ママ」というアイデンティティに依存しすぎないで。

「ママ」に逃げないで。

「ママ」だから、とすべてを我慢しすぎないで。

私はその想いを「キモイ」と表現していたのかもしれません。

そしてそれは自身の母親が専業主婦で、彼女に「子育てしたこと」しか残らなかったのではないか、と私自身が感じていることであり、上記はすべて私が自身の母親に対して感じていることでもあります。

強烈に苦手でキモイと思っていたのに、自分ももう自身を「ママ」と呼んでいるし、息子(20か月)も「ママ」と私を呼ぶ。この皮肉ですが、私はもう「ママ」問題に降参しようと思うのです。

【次ページ】もうあきらめて、「ママ」になる!

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